いつも トップ > リーダーは語る トップ > 義基 憲人さん(義基)



義基
高山市本町2−52−3
TEL 0577−32−0587
FAX 0577−32−7087


飛騨高山は飛騨の匠でも知られるように工芸が一つの文化として根ざした街である。
観光地の多くが歴史的建造物など過去の遺産に頼っているのに対して、今なお伝統工芸をはじめ、独自の文化を発信できる土壌があるということは、実は大きな財産なのではないだろうか?

飛騨高山で切り絵を作り続けて30年、その作品が3万点に及ぶと言う義基さんは、意外にも富山市の生まれだ。
「父が33年前の秋、本町に呉服屋を買取ったんです。教師をしていた兄が店主を勤め、大学生のかたわら、商売を手伝いはじめました。しかし、始めてみると、人通りはあるのにお客さんが入って来ない。考えてみたら当時の呉服屋はお客様の家に出向き、商いをするものだったんですよ。そこで、店頭でなにか手頃な価格で売れるものはないかと考えました。」

呉服の仕入れに京都に出掛けた先で、呉服の型染の型紙や道具を見つけ、早速渋紙を使い見よう見まねで作り、染めてみた。
「型紙は彫れるのに、染めはそうそう簡単にできるものではありません。なんとか活かせないかと、切り絵として店のウインドーに並べて見たところ、1時間もしないうちに売れてしまったんです。東京青山の画廊や銀座のお店でも扱ってくれるようになりました。そこで、全国きりえコンクールにも出品してみたんです。」

そこでいきなりの入選。誰かについて切り絵を学んだのでもなく、まったくの独学のうえ、とんとん拍子にみえた義基さんの切り絵。
「入選がきっかけで第一回日本のきりえ展に出品し、他の人の作品をみて衝撃を受けました。自分の腕の未熟さを感じましたね。そこには自分が持っていた切り絵のイメージを覆す、カラーの作品や大胆な構図の作品など、初めて見るプロ作家の作品に、なんだ、これじゃあお山の大将じゃないか…という気分でした。」

そんな矢先、市民時報社よりの依頼で『飛騨百景』という作品に取り組むこととなった。足掛け3年がかり、週1回飛騨の風景画を制作するというものだ。
「毎週新しい作品を産み出さなければならないんです。試行錯誤をする中で、美術展に出ていた他の人の作品の、あの技法はこうしたらできるのではないか?これではどうだ、と自分なりに工夫して制作していきました。しかし、その仕事が完成し、本となって出版されると、今度は全く絵が書けなくなってしまったんです。」
書いた絵がどれもこれも気に入らず、破り捨てる日々。

店主だった兄が他界し、自分で店を持つこととなったのに、一体何を書いたら良いのか分からない。
「当時、商店街の役員をさせていただいており、街作りの担当として真剣に世界を日本を見つめ新聞で自分の考えを確認しました。その時、これからの時代は仕入れて売っていては生きていけないと感じたんです。そこで、兄の遺志もあり、きり絵義基として始める決心をし、店をからっぽにしました。自分が切り絵を作らないと売るものがないんです。」

そのきっかけは意外にも子供達から教えられた。
「娘は今日やることは必ず今日やり、先送りしないというきちんとした姿勢を貫いていたんです。また息子は思い込んだら一つの事をの一途な性格でした。切り絵屋は切り絵の事だけを考えたらよい。独学ゆえの個性を生かせばよい。よし、自分もと教えられ、今でもその二つを守っているからこそ一つの道を歩いていけるんだと思いますね。多くの人に支えられ求めきれない答えを求め続ける自分の道になったんです。」

切り絵を始めた頃は、いかに細かい部分を切ってあるかというその技巧に走りがちだったという。今は「いかに切らないか」を大切にしている。余分な表現をしなくとも、いさぎよく。それこそが高山らしい粋でもあるように思う。